泥濘に足を取られまして
29

ああ、まただ。
それは、あまりにもかたちの良い微笑で、しくじった、と瞬間的におれは思った。彼女からそんな表情を引き出してしまったことに思い切り舌打ちをしそうだった。同時に、泣きませんよ、といった台詞も彼女の口の中に戻らないかと思ったが、それこそ、言葉というものは表情以上に取り返しがつかないものだった。
下手を打ったと思う。明らかに。言葉にした瞬間、彼女は心を決めてしまったのだ。
「・・・強情だな」
「ローさんほどでは」
ないですよ、と皆までは言わずに彼女はにこりとした。おれは今度こそ舌打ちをした。彼女は首を傾げなお笑んだ。
「俺は、お前のほうがよほど・・・」
「・・・はい?」
声を落とせば、彼女の表情は一瞬できょとりとして、本当に分からないというように首を逆に傾げた。ああ、多分これは真実、"作っていない"顔なんだろう。
「・・・なんでもねェよ。楽しんでくればいい」
飲み込んだ言葉の変わりにそう言って、近すぎた距離を遠ざけた。彼女は不思議そうにしながらも「えと? えぇ、はい」と、頷いてぱちりと瞬いたあと、唇を引き結びながら髪を耳にかける仕草をして、視界からおれを外した。それは納得していない顔だと分かったが、あいにくおれは懇切丁寧にこの感情を曝してやる気なんてさらさらなかった。
――彼女は優しくて、けれど頑なだ。本当のところでは、その心におれが触れるのを、彼女は決して許してはいないのだ、と、思い知らされるようで。
「ね、ローさん」
唐突に彼女はおれを呼ぶ。再び彼女に視線を向ければ体育座りをして、顎をひざに載せていた。おれは胡坐をかいた膝を台に頬杖をついていたのだが、呼んだくせにこちらを見ない瞳に僅かに苛立った自分に、まったくもって本当に大概だなと吐き捨てながら、ゆっくりとその口が紡ぐ言葉を待った。
そして、ぽつりと。
「行こうと思ったのはね、"会えるな"って、思ったからなんです。・・・ああ、いや、これだと語弊がありますね。"2人に"会えるなって思ったんです。今なら、「先輩」と「彼女」のこと、祝福できそうだなって、思ったから」
だから、行くんです。
そう言った彼女の横顔を見て、ふと、なんでこいつは、この世界の人間なんだろう、と自身でもよくわからない疑問が浮かんだ。そして、いっそつれないぐらいこちらに向かなかった視線が、こちらを向いたと思えば。
「きっと、あなたが居たから、そう思うことができたんです」
とても澄んだ、それは。
あァ、よりにもよって。そんな、迷いを消したまっすぐな瞳で、お前はおれを、見るのか。
「お前が想っている男は、・・・どうして、お前を放っておけるんだろうな」
「はい?」
「おれだったら、放ったりなんかしねェんだが」
「な、にを急に言い出すんです」
「・・・どちらかというと、急に言い出したのはお前だろ」
そう言うと彼女は「え、えぇ?」と不可解そうな顔をした。こういう無自覚なところが、まったくもって厄介だ。
ため息をつきながら目を伏せて、すこしだけ、白状する。
「実際は、お前が振られようが振られることすらできまいがどうだっていい」
「あぁ、うん、成就が端っから想定されてないとことか・・・相変わらずひどいなー・・・」
ぼそりとつぶやきが聞こえるが、ひどいと罵られて変わるような考えなど、自分はそもそも持ち合わせたりしないので、そのまま言葉を続ける。
「実のところを言えば、おれはな・・・お前の考えていることを、知っておくことができるのなら・・・それでいい」
それだけで。
囁くように自分から発せられたその、欲がない物言いが心底おかしく感じるのに、心持は穏やかで。知っておければなんて、そんな気持ちの掛け方。それは、目の前にいる彼女の想い方に似ているようで。けれど、少しだけ違う。
「それ、は、・・・」
「お前が、聞くのか?」
彼女が一拍詰まった間に、その先を塞ぐように言葉を返す。動揺が手に取るように伝わって、彼女が息をのむ音がした。それを見留めて、おれはふ、と吐息のような笑いをこぼす。頬杖をついた悪い姿勢をやめて、心持ち背を伸ばし、足の間で手を組み、彼女を見つめて・・・ああ、なんだかこれではまるで、少しだけ。
「・・・と、そんなことを最近、この俺が、思ったりする」
――告解に似ている。
しかし、告解部屋ではない今ここで、おれと彼女を遮るものは、なにもない。けれど、遮るそれはそんな例え話のカーテンでも、この距離でもないことは・・・いやというほど、知っているのだ。
「なァ、お前の想いは、おれが知っておいてやるから」
おれだけが。
「それで、いいだろう」
あァ、こいつの思いが不毛であるならいっそ全部、おれに、寄越せばいいのに。


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だからどうか誰にもその想いを明け渡したりなんてしてくれるなよ。