泥濘に足を取られまして
28

そのときの私はどんな顔だったのだろう。察するに、ひどい顔だったんだろう。ローさんは驚いた顔をして「・・・冗談だ。そう、本気に取るな」と、まるでなだめるような声で言ったのだ。あの、ローさんが。
それにまぁ、その態度もそうだが、彼の驚いた顔はレアで、けれどそれ以上に自分の顔もレアなことになっていたと予想できて、これはお互い様というヤツなだろう。私は一度表情をリセットし、2、3度瞬きをして、それから意識的に困ったように笑った。
「というか、ローさんがバラすっていうと別の意味に聞こえますよね」
「お前な」
はは、冗談ですよ、と、ローさんが先ほど使った言葉で笑おうとして、上手にできなかった。それは彼に真実、"そういう"力があることを、皮肉なことに自らの言葉で、まるで突きつけられるように思い出したからだ。 いやもちろん、彼の能力を忘れていたわけではない。ただ、日常を過ごすうち、頭の隅っこに追いやられていったその事実が、目の前に突き立てられれば見え方も変わるというものだ。彼は本当に、普通の人間ができないことを易々とやってのける力を、持っていて。そのことを笑って済ます元気が、今の自分にはなかった。
口端は上がっているのか下がっているのか、自らの表情であるのにうまく把握できていなかった。雰囲気を変えて話を逸らすことに失敗したので、話を続けることは苦痛だったが、私はそれでも言葉を吐き出した。だって、沈黙してしまう方が耐えられなかった、から。
「・・・・・・あのね、そういうの。性質が悪いですよ」
私の言葉を聞くとローさんは腕を組んで、はあとため息をつきながらがくりと首を落とした後、こちらがわざわざ申告したことに驚くような、もしくは呆れるような声音で「今更、おれにそれを言うのか」と、右の口端だけを上げて言った。
「それは・・・・・・、そう、でしたね・・・」
そんな開き直った態度にこちらが苦笑すれば、ローさんは目を伏せながらふ、と吐息と一緒に笑った。それを見て、私もため息をつきながら言った。
「からかうにしても、もう少し、こう・・・ですね。ネタを選んでください」
「そうだな。けれど、からかったつもりはねェ」
「・・・なら。余計に性質が悪い」
わずかに低くなった声音を自覚しながらも、それを改めることが出来なかった。だというのに、ローさんはむしろ面白そうに、興味をそそられているといった体で私の顔を見詰めているから、思い切り眉根がよってしまう。
「なに考えてるんです」
「お前がきっぱりと振られればいい、と考えている」
「最低だ!?」
先程からろくでもない。けれどローさんは悠然とも取れる笑みを崩さないまま、言葉を続けた。
「そうか? そうでもしなきゃお前は、今このときの感情を嘘にして、生きていくんだろう」
「・・・はい?」
「もしくは、なかったことにして。思い違いにして。お前が心を動かされた人間は、変わることなく「先輩」とやらただひとりだけにして。そうすれば楽だから、と」
言われた瞬間に彼の口を止めなければ、と思ったのに、私に出来たことはなかった。そんな私を分かっているのかいないのか、ローさんはよどみのない口調でなお語る。
「・・・そして、お前がおれに与えたものも、おれがお前に与えたものも、全部忘れて、お前は生きていくんだ」
「そんな、ことは」
ないと、咄嗟に言い切れなかった。どうして? そんなのは、ローさんの言う通りに生きていく自分を簡単に想像できてしまったからだ。ローさんと過ごした日々を薄れさせて、過去のものにして、そっとしまって。"そのあと"を生き易くするために懐かしい思い出にして。鮮やかに思い出すことのないように、色づいた感情を掻き消して。きっと私は生きていけてしまうのだろう。けれど、そうやって容易く予想を描けてしまった自分が、いやだった。
そしてそんなふうに私が一瞬苦い顔をして躊躇した隙に、ローさんは布告した。
「なかったことにされるくらいなら、おれは傷にしてやるよ」
言って、口の端を上げ笑ったローさんの眼光は鋭くて、射抜かれる。
「・・・・・・分かってましたけど、やっぱりサイテー、ですね」
それは罵りだったわりに、つい、嫌味を乗せることを忘れた。最低だとのたまって、そのくせ私は微笑していた。ああ、きっとこれはもうどうしようもないんだな、とその瞬間に悟った。
「最低、か。おれは、全く嫌になるくらい今の自分は優しいと思うけどな」
「そうすると全人類が優しい人になる気がしますけど」
「は、そりゃあいい。世界も平和になる」
私の言葉を受けて、おそらく微塵も思っていないだろうことをおどけて言うその顔を張っ倒してやりたいのは山々だが、実際にはできないことはよく分かっている。だから私は眉を寄せて、せめてもの抵抗のように言葉を発した。相手をどうにかしてやりたい――動揺させたいのか、傷つけたいのかも分からない――思いで放った言葉は、しかし自分の心には確実に刺さっていくのだから、本当に参る。
「こんな風に逃げ道を絶っていって、それってつまり、あなたも同じく逃げられなくなるんですよ」
分かっていますか、と、あのときと同じ言葉をか細く言った私に「上等だ」と、かすかに笑うローさんを見て、あぁ、なんだかいっそ泣きそうだな、なんて。
思ったままに「もう泣きそうですよ」と、笑えば、ローさんはあろうことかこちらの目尻に唇を寄せた。右目に温度を感じて完全に固まって、涙どころではなくなったのに「・・・なんだ、泣かねェのか」と、当のローさんは意外そうに、そして「まァ、それならそれでいいけどな」と、思いがけず優しく笑うから。
はは、まったく、勘弁して欲しい。
「そりゃね、ほんとに泣きはしませんって」
貴方のために、泣いてなんかあげない。
貴方にだからこそ、私の涙は。
「女の涙は高いので、ね」
あげてなんか、やりませんよ。


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