まるで思考が泥に沈むような、重苦しい感じだった。誰かが泣いているのに私はこの腕を伸ばせない。伝う涙を拭えないのがもどかしくて、それでも私は力一杯に拳を握ることしかできない。それはまるでお前は無力であると言われているようで。それが苦しくてその状況から目をそらすように瞼を閉じる。あぁ苦しい、なんだろう。そう、さっきからずっと、息が、しずらくて、苦しい。うまく肺に酸素が回っていなくて、なんだか、やけに・・・。

「・・・ってぬわ!?」
「・・・・・・やっと起きたよい」

言いながら彼はおまけといわんばかりに額にデコピンを食らわせてきた。「痛っ!」と声を上げるが、彼はそ知らぬふり。どうやら私は鼻をつままれていたらしくって、何だそれは恥ずかしい。恨めしげに見てやるが「時間、いいのかよい」と言う言葉に慌てて、瞬く間に夢のことなんぞ頭から転げ落ちていた。しかしながら時計を見ても、針は私がいつも起きる時間より10分ばかり過ぎているだけで、けれど朝の10分は貴重であるので驚きながらも急いで立ち上がる。

「す、すいませんさっそく助かりました! でも・・・」

昨日はあれ以上何も話さずに、ただ、私はどうしようもなくて、明日から目覚ましお願いしますというのが精一杯だった。けれどその言葉も、空く酒瓶を見詰めるだけという眠気に誘われるような行為のせいで、言ったか言ってないか危ういところだ。だから何時に、というのは伝えていなかったはずである。けれどそれを問う前に、その答えは返ってきた。

「あぁ、お前の目覚ましとやらが、鳴ってたからねい。一応な」
「なるほど。いえ、ありがとうございます」

私は目覚ましを止めた後、すぐさまにかけ直すのが習慣になっている。なぜかって、じゃないと夜にかけ忘れるからだ。いや決して馬鹿にしないでくれ、これでも疲れてくたくたになるまで働いているのだ。まぁ、毎日のように仕事に追われている、とか忙殺されているわけでもないのだけど。でもともかく、その習慣が吉と出たようで、昨日かけておいた目覚ましが鳴ってくれたらしい。でも、寝室に置いてある目覚ましの音に、気づいたとでも言うのだろうか。私爆睡だったのに。

「よく寝てるから悪いとも思ったが、目覚まし時計やってやると約束しちまったからねい」
「いえいえ、ほんと、助かります。もう朝の私には無慈悲でいてください」
「お前ェな・・・」

呆れたような口調で「ま、いいけどよい」と返して、そうすると彼は手持ち無沙汰なようだった。うん、まぁそうだよね。どうしようかなぁ。何故こういう時は都合よく休みじゃないのだろうかと思うが、そんなことを思ったところで朝の時間は瞬く間に過ぎていく。これは決断しなければならないらしい。けれどそこでふとひとつ思いつく。うん、そうだよ。土日は休みである。そして今日は金曜なのだから、連休にしちゃえばいいじゃない、と。まぁ嫌味を言われるのは重々承知だったが、有給は残っているし、うちの会社はどっちかというと休みには寛容だ。大手企業で働く友人のところの話を聞けば、熱を出しながら出社したときもあったそうで、まぁ流石に止められたというけれど。それに比べて体調不良が通じて心配してくれる我が社は優しいだろう。まぁ、中小の小企業だからなと言われたらそれまでなのだが。しかし、そうと決めれば一気に力は抜けて、電話の前に立って番号を押す。体調不良だと告げると、やっぱり体調管理はしっかりしろと言われるが、結局は心配してくれる。嘘を吐く罪悪感に駆られながらも、優しい上司を持って私は嬉しい。まぁ、だからこの会社続いてるっていうのもあるけれど。

「・・・よかったのかよい」
「ん、えぇ。大丈夫です」

起こしてもらっておいてもったいないようだが、休みにこんな朝から起きるのも珍しい。とすればやることはひとつだ。

「とりあえずお店が開くのを待って・・・その間にご飯を食べて、いや食材・・・まぁいいや。それでとりあえずは・・・マルコさんの服ですね!」
「・・・あァ、すまないよい」
「いえいえ、ほんと気にせんでくださいそこの辺は!」

出歩けない事情は最初の話を聞くときに話したが、いつまでもこの部屋にいるわけもいかない。部屋に缶詰なんかされたらこの人は息が詰まって死んじゃうんじゃないかと、彼の職業を思い浮かべてみる。まあでも、となればやはり行動あるのみだ。

「えーとうん、では軽く食べれるものをコンビニで買ってきます」
「コン、ビニ?」
「え? ええはい、うーんと早朝からも開いているお店です」
「そうか、よい」
「はい。・・・朝ですし大丈夫、ですよ?」
「・・・分かってるよい」

いいながら彼はため息をついて、私はそれを見ながら立ち上がって、自室に移動する。手早く着替えて身支度をして、今度は洗面所へ移動し、顔を洗ったりして。鏡を見ながら最低限というように化粧をして紅を引く。それを終えるとマルコさんのいる部屋に戻り、いつの間にか畳まれていたコートに手を伸ばす。彼が畳んだのだろうかと思うと、少しだけ笑みがこぼれたが、ばさりと羽織り、所持金を確認して鞄に財布を突っ込んで。準備が整ったのをあらかた確認して、大丈夫だとは思っているけど、彼に言いつけるように口を開いた。

「ええっと、大丈夫だとは思ってんですが、一応」
「ん?」
「帰ってきたら色々説明しますんで、珍しいと思ってもむやみにものに触れないでください。あと誰かが訪ねてきても出ないでください、居留守でお願いします。えと、うーん、あとは・・・」
「・・・はは、それこそ大丈夫だよい。おれを何歳だと思ってんだ。さっさと行ってこいよい」
「です、よね。分かってますよ、一応って言ったじゃないですか!」
「くく、分かってるよい、いってらしゃい」
「ぐ・・・っあぁもう、じゃあ行ってきますよ!」

そうさ、分かってはいた。年上である彼にまるで子供にするような心配なんて、ちょっと失礼かな、なんて。でも不安だし、心配だったのだ。しかし彼はまるで心得ているとばかりに笑っていて、それがちょっとだけ居心地が悪かった。分かっていたさ、そんな心配は無用だってことぐらい。それでも不安だったんだもの、しょうがないじゃないか。けれど彼にはそんな気持ちはさらっと見透かされていて、だからこそちょっと悔しくなって。だけど一人暮らしで久しくしていなかった見送りの挨拶が思いのほか嬉しく感じてしまわれて。そしてそう思ってしまったことが余計に悔しい思いを助長させていて、なんだか嬉しさと悔しさでぐちゃぐちゃの感情に思わずとつっけんどんな挨拶を返してしまったのだった。でもそれはそれでなんだか思うように転がされてるような気もなんとなくして、出会って一日足らずでこの有様ってどういうことだとひとり落ち込んだ。
だって私はもっとこう、大人だったはず、なのだ。けれど自分よりも大人である人間がいると、つい子供っぽく甘えてしまう気持ちが出てしまうのは、私の悪いところだという自覚があった。そうやって改めて行き当たった結論に、これでは駄目だと気を引き締める。彼がいくら年上でも、今は私が家主で、そして彼の世話をすると決めたのだ。だから私が年下だからって甘えるなんてことはあっては駄目だ。すでに目覚まし時計を頼んだ時点でそれはどうなんだといわれそうだが、あくまでそれは納得してもらうための交換条件だ。だからそれ以上は、マルコさんを困らせる。ふに、と頬をつねって気合を入れる。そう、ただちょっと、ずいぶんと大人である彼の雰囲気が久々に感じられるもので、ちょっとだけ、気が緩んでしまったのだ。しかし果たして、彼とのボーダーラインはどこだろう。親しさと、甘えの違いはどこだろう。ふと少しらしくなくシリアスに考えて、そのらしくなさに私は笑うのだった。

「ただいまでーす」
「あァ、おかえり」

シリアスに考えたって私はパンクするだけなので、そんな思考は早々に沈めて。コンビニで買った食品を机に並べる。サンドイッチとお弁当とからげと、ピザまん。そしてピザまんは私のなのでと端に避けると彼は笑っていた。すいませんね好物なので。ふいっと視線をそらしても笑う気配が治まらなくてしょうがないからピザまんにかじりつく。彼は少しだけ物珍しそうに並べられたそれらを眺めていて、サンドイッチに手を伸ばしていた。

「食べれそうです?」
「あァ、特別、食文化が違うわけでもなさそうだよい」
「お箸とかは?」
「使えるが・・・ワノ国に、似てるよい」
「わのくに?」

なんだか馴染みあるような単語に聞き返すと、説明されたそれはまるで昔の日本のようだった。面白いこともあるんですね、返せば彼も頷いていた。ああでもそれなら。

「なんていうか。ちゃんと、帰れそう、ですね。よかった」
「・・・ああ」

ぱくり、と最後の一口を食べ終えて、時計を見る。ゆるゆると喋りながら食べていたら、時間はつぶせていた。店までの移動時間を含め、今から動けばちょうど開店時間くらいには着くだろう。そう思って立ち上がり、声をかける。

「えーと、では肝要の服を買ってきます。お弁当ももしよければ食べてください」
「助かるよい」
「いえいえ、では、・・・いって、きます」
「ん、ああ。いってらっしゃい」

躊躇った言葉に、ごく自然に返された挨拶は、私の心を温かくさせるには十分だった。


気のせいだというには、
その感情は明確な輪郭と温度を持っていた。



何気ないことがどうしようもなく心を打つ。

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