「いえね、お兄さん、天国ってずいぶんと広いんですね」

カッコイイお兄さんが私を推し量るように、それでも疑っているのならそれにしてはずいぶんと真っ直ぐな目で、私の目を見返していた。

ただエースは、彼女の言葉を理解するのに、しばらく時間がかかったていたのだった。それは、彼の理解力うんぬんという話より、その言葉を言った彼女の真意を読み取れなかったからだった。だぶんなにかの揶揄だろうか、冗談だろうか。しかし冗談にしてはちょっと性質が悪く、だからといってからかわれているような感じは全くない。彼女の諦観したようなあきらめの境地に到ってしまったような、そんな他人事のようにどうでもよさげに放られた言葉が、なんだか余計にその言葉に真実味を持たせてしまっていて。彼は反応を返せなくて困っていたのだ。

しかし当の本人はというと、そんな相手の機微にかまっていられるほど、ぶっちゃけ余裕なんてなかった。断言しよう、全然微塵もなかった。だって私は、板目の感触を確かめることで、やっとのこと彼が自分に話しかけていたのだという現実を認識したばかりだったのだ。ここは間違いなく、どうしようもない現実だった。そう理解した時点で、色々とギリギリだった思考も認識の齟齬も、私の中でなんとかかみ合ってくれた。この世界は風景画なんかじゃなくって、地に足をつけられる現実だった。しかしそれでも、彼の呼びかけに私は返答できている、意志の疎通ができて、つまり私という意識は生きている。そんなことがひどく私を困惑させて、動揺させていた。だから、そんな非現実的な現実をちゃんと受け入れるために、発した言葉だったのに。そういった私の顔を見て、次いで私の言葉にそれ以上の申し開きがないと見て、お兄さんは二の句がつげないというか、なんかもうとてもおかしなものを見るような目でこちらをみてきた。ように思えた。私はなんだか重大な判断ミスをおかしてしまったらしいと、その素直すぎる反応で悟っていた。

でもそしたら、と彼女は思考する。でもそしたらさ、ここが天国でないというならば、なんだっていうのだ。まじまじと見詰め合ってしまったお兄さんの視線に耐えられず視界からはずして、周りを見回せば一面はきれいな青だった。それは雄大で絶景で、ここが地獄だとはとても思えない。じゃあやっぱり、ここはなんだって言うのだろう。精神世界? ・・・なんかそれは、あまりしっくりこない。だって私の精神はこんなに雄大じゃない。いや、言っていて悲しいなんてことはないですからね、うん。うん、ぜんぜん、悲しくなんてない。・・・あれ、泣けてきた。ああ、いやいや、と頭を振りながら逸れた思考を戻して、私は改めてお兄さんと呼んだ彼を視界にいれていた。

そして、視界に入れた瞬間、予感が、した。いや、違うな、予感ってのは嘘ではないけどそう言うには大げさで、私はきっとそんな素敵なシックスセンスなんてのは持ち合わせていないから、本当はたんに冷静に予測してしまったのだ。ただ、それがはっきりとした輪郭を持たないから、予感がした、と思うだけで。しかしそれにしたって、もしもその予感もとい予測が正しかったらそれは、なんてひどい冗談なのだろうと。天国だろうか、と思っても案外頑張って受け入れられそうだったのに、そんな頭が、今度こそくらりと、世界が回った気さえして。

かれのすがたをわたしは、しっていた。

なぜ先ほどまで気づかなかったと自分の目を疑ったが、そんな目よりも現実を疑いそうだった。たったさっき行った現実と認識のすり合わせを、一からやり直しをするはめになりそうになったので、思考の沼にすっとんでいきそうな意識をぐっと堪えた。たっぷりの沈黙のあとに「天国ってお前ェ、物騒だなァ・・・」と片方の眉を上げて不思議そうなままに感想をよこす彼に、むしろこっちが二の句を告げなくなってしまう。 いや、分かっている。ここでまたフリーズしたって、これは紛れもない現実なのだ。そのことはさっきいやというほど受け入れたじゃないか。そうやってなんとか私は、自分の意識を受け入れがたい現実にやっとこさ留めて、ようやく口を開いた。

「お兄さん、笑わないで、聞いてくれますか」
「・・・おう、なんだ?」
「いえね、私」

一瞬だけ、ありのままを話すのは如何なものかと、躊躇した。けれど、この人ならば、きっと大丈夫だ。そんな根拠もない思いが、彼のキャラクターを知っていることで湧いてきてしまう。いや、でも、本当に「彼」なのか。・・・いいや、ここで迷ったって仕方ない。一呼吸間を空けたあと、私は思い切ってことの始まりと顛末を語りだした。

私、がね。猫を助けたんです。(それは私にしてはとても、とても勇気ある行動だった)車がね、運悪く通ってきていて、助けようとしたその子は、子猫をくわえていました。(ああ、だからだったのかもしれない)無茶をしたと、自分でも思います。(私、は、確かに)車にはねられてしまいました。そしたら、ね。

「ここに、いました」

じっと、こちらを見る瞳が鋭くて、けれどその瞳をどこかの画面で知っている気がして。でも、それとは違い肌で感じられる気迫に気圧されるようで。やっぱりこれは現実なのだと、いっそ感嘆する。それでもその瞳をそらしてはいけないということだけはわかって、しかしふ、とゆるんだ表情や気配と一緒に、長かった沈黙も破られる。

「・・・まぁ、話は、うん。分かった」
「・・・・・・ありがとう、ございます」

ぶっちゃけ分かってなさそうだったけど、自分でもよく分かっていないものに突っ込んで掘り返す勇気はなくて。緊張に詰まっていた息をふぅ、と吐くと、思案顔のお兄さんがゆっくりと口を開く。

「まぁ、だがなぁ、あんたがどう思おうが、ここは」

私の推測は、もう確信になっていた。カッコイイお兄さんは逞しい体を惜しげもなくさらしながら、笑っていた。それは、まぶしくて。まぶしくて眩暈がした。容赦なく照りつける日差しもそうだけど、なんだかもうこの世界のすべてが、私には眩しく輝いて。眩暈が、したんだ。

「まぎれもなく、海に浮かぶ船の上だぜ?」

そして次いで彼は「だから天国なんかじゃねえぞ!」とおかしそうに、これまた眩しい笑顔で言い切る。ああ、うん。分かっていましたよ。いや、だからこの船の上が天国なんでしょ、なんて屁理屈をこねる気にもならない。不思議と、この感覚を夢だとは最初から思わなかったし、疑いもしなかったのだ。それはつまり、もうその時点で早々に、現実逃避という選択は詰んでいたってことだ。それよりもさらされた現状を現実だと理解してしまった私は合理的にできていたし、取り乱すよりはよかったと自負している。まぁ本当は取り乱す場面だったのかもしれないけれど。・・・でも、なんだか。笑った彼の名を知っていると認めてしまうほうが私には、現実ではないような気がして、とても。うまく笑う気にはなれなかった。
しかし、眩しくて眩暈がしたのだと思っていたそれが、本格的に回り始めたとき、まずい、と思った私の体は無常にも、すでにぐらりと傾いていた。ああでもなんでだ、よりによって、ちく、しょうめ。視界は思考とともに、ブラックアウトした。




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口調?なにそれ食べれる?(・・・
エースさんの口調が分からなすぎてつらい。