「あんたがどう思おうが、ここはまぎれもなく、海に浮かぶ船の上だぜ?」

おかしいことは、なんら言っていないはずだった。

それでも、いっそ頑なに見開いていた彼女の瞳が、それとは打って変わってとても揺れてるのに気づく。ふと見るとすごい量の汗が滴っていて、段々と目がうつろになっていた。まずい、と思った瞬間大丈夫か、と声をかけようとするが、彼女の体は傾いていて、とっさに腕を出していた。「おい、大丈夫か」と今度こそ言いながら、甲板の床に打ち付けることは免れた体をゆっくりと支えてやって。しかし、触れた肌の冷たさに、目を見開いた。太陽に照らされていたはずの肌が、汗は暑さのせいで流れているはずだろうに、これでは、この冷たさはまるで、彼女は、本当に。それ以上言葉を続けるのをエースは躊躇った。その先の言葉を思考して形にしてはいけないと、言葉にしてはならないと咄嗟に思ったのだった。 広いですね、諦めたように呟いたさっきの彼女の言葉が、また、響いた気がした。

けれど、とエースは気を取り直す。はねられたと言った彼女だが、だから天国、なんてすっとんだことを言い出したのかと納得もする。たしかにそんな目に遭ってからこんな晴天の下に放り出されたらそう思ってしまうのかもしれない。だが、確実にちゃんと生きている自分を前にして、そんなことを言ってもらっちゃあかなわない。どうしようか、と逡巡するが、体調が優れない様子の彼女を見て、とりあえず船医のところに行ったほうがいいかと判断をつける。
ちなみに、彼自身は甲板で昼寝でもしようかと思っていたところなので、何か明確な用があったわけではないのである。いやあったかもしれないがそんなものは知らねぇと思考から追い出して、それよりも彼女のほうが先だと抱え直す。横抱きにするとうぅ、と彼女がうめいたのでもう一度「大丈夫か」と声をかける。

「すみ、ませ・・・」
「大丈夫だ、黙ってろ。医務室行くぞ」
「う、ぇ?」
「だから大人しくしてろ・・・って暴れる気力もねェか」
「そんな、き、微塵も、ないです」
「ハハ、まァ・・・だろうな」

微塵もない、そういう彼女はぐったりとしていてその言葉は確かなのだろう。そしてこの船で暴れようとしていたわけではない、と言外に含ませている。エースもそれをきちんと感じ取っていた。敵だった場合、単身で、なんて能力者かとも思ったけれど、それはまだ分からない。けれど彼女の無防備さが、なんだか能力者でも敵でもないような気にさせる。なんて、油断したら駄目だと思いつつも、実際ぐったりとなげだされる白い腕と、青ざめた表情を見ると眉が寄る。それに彼女の雰囲気の柔らかさが、そういった敵ではない、という感覚を後押していた。とりあえず、だ。考えながらも歩みを止めることなく医務室を目指す。ああ、そういえば。

「お前ェ名前はなんていうんだ?」
「う、あ、、です」
「あー辛いとこ悪ィな。おれはエースってんだ、とりあえずな」
「すい、ま、せん・・・」
「いいから」
「ありが、とう」

ふにゃり、と力なく笑う彼女を見て、こんな風に敵船でへばるようなやつもいないだろうと苦笑がもれる。目の前に目的の扉が現れて遠慮なく開け放つ。

「・・・っと、おい、誰かいねェか」
「・・・はい、どうかしましたか?」
「いや、ちょいと倒れちまったやつがいてよ・・・」
「まぁ大変。・・・あら、見かけない子ですね」

頬に手を当てながら現れたのは白衣のナースである。抱えていた彼女は苦しげにも目を開けてちらりとナースを窺っていた。「・・・・・・ちょう、びじん・・・」ん? と苦しげなつぶやきに脳内での変換がうまくできずに「ちょうびじん?」とひらったいイントネーションで聞き返してしまった。次いで超、美人と言いたかったんだと思い当たって、ひどく脱力した。なんだそれ、笑っちまう。

「お前な、そこかよ」
「だ、って」
「あら、ふふ、正直な子ね」
「いやぁ・・・」

へへへ、とまたふりゃりとするので褒められてねーぞと心の中だけでつぶやく。実際に突っ込まなかったのは病人に対する配慮という名の良心だ。案内されたベットにそっと彼女をおろす。「貧血のようね、暑さにも当てられているわ。しばらくは安静にね」と先ほどのナースに少し矢継ぎ早に言われて頷く。となると、だ。別に付きっ切りでもいいが、ただ単にここにいるのは退屈だ。いや、まだ万が一の可能性もあるし、見張っていたほうがいいのだろうか。うーんと唸るがふと、自分が離れたら行動を起こすかもしれないと思いつき、いったん部屋を出て離れようと背を向けた。しかしするとくん、と弱い力が引っ張って動きを止めさせた。なんだ? と振り返るとやっぱり苦しそうに呻いている彼女が目に入る。

「どうした?」
「ちょっと、待って、くだ、さ・・・」
「ん? おい無理すんな? 話なら一眠りしてから・・・」
「い、え。ただ、」

苦しそうにしているのに裾をつかんでこちらを見やる瞳に、意外だなとまた、つい感想がもれる。そういえば先ほど見詰めた瞳も強かったなぁなんて思い至っていた。ならばこの強さはもともと、彼女の性質なのかもしれなくて。これは、面白いものを捕まえたかもしれないと。彼の好奇心が疼くのを、確かに、感じていた。

「ありがとうと、お礼が言いたくて」

エースは会ったばかりだが、そんなふうに言う彼女には少なからず好感を持ってしまっていて。名前しか知らないんだけどなぁ、と嘆息しつつも「どーいたしまして」とにっと笑って頭をなでる。しかし余程辛かったのか、その返事はもう音にはならなくて、彼女はすでに意識を手放したようだった。




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古川氏の声で再生できるか否かそれだけが問題だ!(主は自分で喋らせといてしっくりこない時があります(・・・