泥濘に足を取られまして
12

女は恋をすると綺麗になる。そんな俗な定説がしかし、話をする彼女の顔を見ていると思い浮かんだ。なるほど、こういういことを言うのかと、初めて納得した気分だった。
アナタが好きなの、聞き慣れているとは言わないが、言われたことはある言葉だった。その程度は軽くても重くても、それを聞くたびに、あぁ馬鹿だなァとただ思った。海賊を好きになるなんて、そんな"報われないこと"をわざわざするなんて。そう、思っていた。今この瞬間、彼女の表情を見るまでは。
「・・・その「先輩」に恋人ができたんですよ」
「奪おうと思わなかったのか」
「う、奪っ・・・らしいっちゃらしい意見ですねぇ。さすが海賊・・・。ま、でもそれは、・・・不思議と思いませんでしたよ」
「理解できねェ」
「うっ・・・そんなこと言われても」
「欲しいなら手に入れる。それ以外の選択はねェ」
そう言いながらマグカップに口をつけると彼女は少しだけ膨れて「そんな風にできたら苦労はないんですよ!」と拗ねたような声で言う。
「先輩」とやらの話をする彼女の表情は豊かだった。別に普段が無表情と言う訳ではないが、穏やかな彼女の新たな面を知るという点では間違いなかった。こんな表情もするのかと眺めるが、話をしているということもあって、彼女は不審に思わなかったらしい。
ただひとりの男に、彼女はその心を乱されている。しかしその様を愚かだと笑うことは出来なかった。以前は馬鹿だと切り捨てたそれを、彼女の前ではできなかった。未だにぽつぽつと語られる話を聞きながらため息を吐けば、彼女は何を勘違いしたのか「・・・やっぱ呆れました?」と少し悲しそうな顔で尋ねた。・・・どうしてそうなる? とまたため息を吐いて「そうじゃない」と否定する。ため息を吐いたのは、今の今まで恋は愚かだと切って捨てていた自分自身にだ。いや、まだ愚かだと思うところがあるのは確かだが、そうではなくて。こうも簡単に認識を改めさせられてしまったことに、些か不甲斐なさを感じていたのだ。この歳になって価値観が覆されるというのは、少しばかりの抵抗を有する。ただそれを認めないというにはもう歳をくっていて、そんな抵抗をするのは子供がすることだと分かっているので、結局は認めるはめになるのだ。考えるとまたため息を吐きたくなるが、彼女が要らぬ勘違いをすることが目に見えたので、代わりに息を吸い込んだ。
「・・・それで?」
「はい?」
「はい? じゃねェ。お前はどうしたいんだ」
「ど、う」
彼女の話は、本当にただ想いが零れていくように語られるだけで、そこには彼女の欲が見えなかった。好きなんです、羨ましくて、でも憎むことも出来なくて、そこまではいい。だが、だからどうしたいと、ついに彼女の口からは語られなかった。おれとしてはとても珍しいくらい大人しく耳を貸してみたのだが、散々話を聞かされたこちらとしては、それだと些か釈然としない。けれど聞けば言葉に詰まった彼女は、本当にどうこうしたいと考えている様子がなかった。これっぽっちも予想していなかったというような固まり振りで、おれは呆れる。
「幸せになってくれたらそれでいいとか、綺麗事抜かすなよ」
「で、でも、」
「・・・テメエが動かなきゃ、コトは転ばねェ」
彼女が目を見開く。その様子に少しは自覚したかと目を眇めた。
彼女は、何も望んでいなかった。正確には、失うくらいなら、望んでいなかった。彼女は少しばかり臆病で、でもそれでは、前にも後ろにも動かないままだ。
「・・・ローさんは、すごいですね」
「・・・なにがだ」
「いやね、私、気づいちゃって」
「あァ?」
なんだか少し呆然とした様子の彼女の物言いが分からなくて、つい聞き返し方が荒くなった。けれど彼女はそれを気にするわけでもなく「ああ、いや」と言葉に迷っているようで。そしてしばらくの間があったかと思えば、彼女はやっと言葉を発した。
「私ね、なんか、どうにもしたくなかったみたいなんですよ」
満足げに笑った彼女は、あの、儚さを浮かべていた。


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「助けてくださいよキャプテンー!」って船員に相談持ちかけられてたりするといいなとは思います。そしてきっと「おれが知るか」とにべもなく切り捨てられるって言う。でもごくまれに乗ってくれる相談は船員たちの間で好評で今日も今日とて頼られるとかそんな感じでお願いします。←