泥濘に足を取られまして
17

彼女は面倒くさがりの癖にこうと決めると一直線だった。その行動力をもう少し別のところで使えば良いのにと思うがそれは自分にしてはらしくない、余計な世話だろうか。
彼女は海に行こうと言った翌日、本当に出かける気満々でおれを朝から叩き起こした。いつもよりも早い朝に不機嫌になるが「ローさんが言ったんですからね!」と言われればろくに反論も出来ない。確かに言い出したのは間違いなくおれで、好きにしろといったのもおれということで言質を取られていた。もう少し考えて答えればよかったかもしれないと、ため息を吐いた。
そして、電車という乗り物を乗り継いでやってきたそこは、確かに彼女の言っていた通りではあって、特別感動があるわけではなかった。ただ、潮の香りが随分と久しぶりな心地がして、目を細める。
「海、久しぶりなんですよねー」
汀にしゃがんで、海水を手で掬ってはぱしゃりと放りながら彼女が呟く。おれの世界では珍しくもないのだが、海は彼女にとって新鮮らしい。飽きずに同じ動作を繰り返していた。
彼女は「シーズンじゃないのでよかったですね」と言っていたが、確かに人はいなかった。時間帯のせいもあるだろうが、向こうの道を行く人間はいても浜辺でこんな風に遊んでいる人間はいなかった。
「・・・ね、ローさん」
呼びかけた彼女は、しかしそこで言葉を区切った。それが不思議で彼女を見る。けれどいまいち彼女は言い難そうに、「あー、いや・・・」と言葉を濁した。ちらりとこちらを見上げて、また海水を掬っては投げる。その一連の動作に何が言いたいのだろうとおれは眉を寄せた。
「ねぇローさん・・・」
「・・・だからなんだ」
「・・・ちゃんと帰れるから、大丈夫ですよ」
そういって彼女はふにゃりと笑った。その話題は、今まで意図的にとまでは言わないが、なんとなく彼女が避けていたのをおれは知っていた。彼女は、不用意なことを言うような人間ではなくて、下手な慰めもおれには必要ないと分かっているようだったからだ。でも、そんな彼女がそう言葉にしたのだからおれは少しだけ意外に思っていた。最近、少しばかり彼女はらしくない。でもその原因は知れていて、彼女が風邪を引いたときにこぼした言葉がそれを明確にしていた。
いつの間にか、おれと彼女との間に引かれたいくつものボーダーラインは日を重ねるごとにひとつ、またひとつと消えていっているのだ。そうして今日、また彼女はそのボーダーラインを超えてしまった。そしてそれを、おれも許容していた。
「・・・そうだな」
小さく頷けば、彼女も仄かに笑った。
この世界の微温湯は、性質が悪いと思う。何十にも張ったはずの線の強度をあっさりと脆弱にする。彼女がなにか見返りを求めるような利害で動く人間だったら、都合が良かったのに。危険に溢れた世界であればよかったのに。それと真逆のこの世界は、ゆっくりとおれの神経から鋭さを奪っていく。
彼女は、おれに与えっぱなしだった。まるでそうすることが当然のように、彼女は穏やかに笑う。けれどそれは大抵の人間が出来ないことだというのは分かっていた。なにかをすれば見返りを求めるのは当然で、彼女だって最初は「まぁ家事とかやってくれたら嬉しいです」なんて言っていたのだから、そうなるのだろうと思っていた。けれど実際、彼女がおれに何かを強制したり求めたことはなかった。まぁ、御使いの頼まれごとは多いとは思うが。けれどそれでも、それはおれが与えられているものからすればずっと少ない気がした。
ふと、彼女はすくりと立ち上がって「喉が乾いたんでなんか買ってきますね」と歩き出す。そして「あ、」と思い出したというように「ローさんも何かいりますか」と言葉が続く。それに「いや」と首を振れば彼女は「分かりました」と言ってまた歩き出した。
そしておれは、その後姿をぼんやりと眺めながら、あぁ、彼女との間に残ったボーダーラインはいくつだろうな、なんて、らしくもないことを考えたのだ。


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その行動力をもう少し別のところで使えば良いのに="恋愛に対してもっと使えばいいのに"なんですけどそこまではっきり思考するのは自分が気にしているみたいで癪なローさん(笑)