泥濘に足を取られまして
20

抱いた腰の細さに、動揺した自分がいた。
彼女が絡まれていた場面に遭遇しても、別に頭に血が上るとか、怒りに駆られる、というわけでもなく。どちらかというと、何故そんなに無防備なのだろうと呆れながら、まだ遠い彼女との距離を詰めていた。けれど、その腕が取られたときに、じわりと腹の底からわいた言いえぬ熱さが、内側から身を焦がしていて。気づけば残りの距離を一気に詰めて、勢いのままに彼女の身体を引いていた。
そしてその、頼りない細さに驚いて。いつも掴みどころなく笑う彼女は、存外考えていたよりも非力な存在だったのだと、思いがけず理解してしまったのだ。
だからか、考えるよりも先に口からするりと出た言葉に、また線を踏み越えたなとは自覚していた。けれど、それでも曖昧に笑う彼女はいつもとさして変わりがないようで、まるで動揺のないことに少し眉を寄せながら、その危機感のなさにため息を吐いたのだ。



海から家に戻る途中、図書館に寄って、また異世界に関するような本と、医学書を借りる。しかし医学書はともかく、異世界の本に関しては今までこれといって収穫がなかった。また同じことの繰り返しになるだろうと分かってはいても、本を手に取ることを止められないのは、無意識の内に焦っているからなのかもしれない。
けれどそこで、随分自分らしくない気弱な考えだと気づいて、本の背にかけたまま止まっていた手に力を込める。そしてそんならしくない考えを振り切るように、棚から本を引き抜いた。
本を借り終わり、既に外に出ていた彼女と合流しようとすれば、生温い風が頬をなでたのに、ほんの少しだけ眉を顰める。
「もういいんですか」
「・・・あぁ」
一言答えれば彼女はゆるく笑い、どちらからともなく歩き出して帰路に着く。
そしてどこか遠くを眺める姿を横目に見ながら、おれは以前、彼女が熱を出したときに言っていたセリフを思い出していた。
今、肩を並べて歩いている、この距離はもうきっと、他人じゃない。そんなことは、ずっと分かっていた。ずっと前、それこそ彼女に「他人じゃないと言ったら」と、言われたときから、分かっていたのだ。ただ、そのときは自覚できず、認められなかっただけで。
船員でもない、この、遠いような、近いような距離。
そんな曖昧な距離が、もどかしく、煩わしいと感じるようになったのは一体、いつからだったのか。
幾重にもあったボーダーラインは、一体、どこに引いていたのか? 一体どこに引いたら、正しいと言えたのか?
一体おれは今、彼女にどこまで踏み込ませていて、そしてこれから、どこまで踏み込ませる気でいるのか?
「ローさん」
「・・・あ?」
唐突に呼ばれた名と、止まった彼女の歩みによって、疑問で埋め尽くされた思考は中断される。
遠くを眺めていた彼女の瞳が、いつの間にか真っ直ぐと俺を見詰めていた。
「・・・難しいことでも、考えているんですか」
少しからかうニュアンスで笑いながら、彼女は尋ねてきた。しかしどうしてその言葉を放つのに至ったのか理由がうまく掴めなくて、ことさら眉根を寄せれば、それに応えるようにとんとん、と彼女は自身の眉間を指しながら苦笑した。
「いえ、随分思いつめた顔をしていたので」
「・・・そう、か・・・まぁそうだな、こんな風に考え込むのは今までなかった」
努めて平たく、感情の起伏のないよう答えたつもりだったが、知れず緩く上がった口端の笑みは、少し自嘲的だったかもしれない。
「・・・ローさんでも、悩むことってあるんですね」
そう言った彼女は、いかにも驚きましたとでもいうように精一杯目を見開いていて、それが若干気に障る。
「お前はおれを何だと思ってんだ」
「え・・・・・・」
不機嫌を隠さないで言った言葉に、彼女は咄嗟に答えようと口を開け、一文字零したかと思えばそのまま固まってしまった。そしてしばし考えるように視線を巡らせては、どうしようもなかったというようにその口を閉ざした。それでも彼女を見詰めれば、気まずそうに視線を逸らされる始末だ。
そこに落ちた沈黙が、まるでいつか無言だった自分への意趣返しのように感じられて、ヒクリと口の端が引きつる。
「・・・お前が無言を嫌いな理由は分かったよ・・・だから答えろ」
「・・・・・・」
「・・・オイ」
答えを要求されたことが意外だったのか、彼女は一瞬虚を衝かれたように目を見開いて、視線を右往左往させた。しかしおれの顔をちらりと窺ったかと思えば、やれやれとでも言ったように息をついて。その様子に思わずと眉を寄せたが、何か言葉に出すと話しが進む気がしなかったので、おれも彼女と同じように口を閉じていた。
そして彼女は顎に手を当て、うーんとしばらく唸ってから、観念したかのようにやっと質問の答えを導いていた。
「そう・・・ですね、さしずめ友人といったところでしょうか」
「・・・友人」
妙に違和感を覚えたその言葉を、口の中で転がしてから鸚鵡返しで呟いていた。
その様子に彼女は、僅かに口の端を上げる。その微笑はなんだかひどく優しくて、おれは咄嗟に言葉を見つけることが出来なくなった。けれどその様子さえ予見していたとばかりに、彼女は笑うだけだった。
「ねぇローさん」
「・・・なんだ」
「ローさん」
「・・・だから・・・」
これと似たやり取りをついさっきもした覚えがあって、そんな既視感に些か苛立ちながらも、この雰囲気はそれよりもっと前に感じたことがあるなとも思う。そしてそれは、この先の展開を示しているようでもあった。
「・・・私が友人では、不服ですか」
ああほらやっぱり、と思うと同時に、あの時と僅かに違ったのは、それが疑問ではなく確信したような口調だったということだ。そしてどうしてか、おれはそれをもどかしいと感じた。
おどけて笑う割に、そこには寂しそうな感情が乗っていて。ああまただ、この既視感。おれはあの時どう思ったんだろうか。そう、確か。彼女を悲しませる事態は避けなくてはならないと思っていて。あぁ、でも。
でもそれは、どうしてだった?
「・・・そうは言ってねェよ」
「ローさんは素直じゃないですね」
「ぬかせ」
あの時、おれは何故彼女が悲しむのを避けたかったのだろうか。
一度そこに疑問を持ってしまうと、まるで違った視点で己の感情が見えてしまった。
あの時は、とにかく回避しなければいけないという思いに駆られていて、何故そう思うのか、というところまで思考が及んでいなかったのだ。
けれどそれはまるで、今まで故意にその疑問を排除していたようだった。わざとそこに思考が及ばないようにしていたようだった。だって、「しなくてはならないから」なんていう思考の帰結は、常の自分では考えられないような、随分とお粗末な思考の纏め方なのだ。
そのことに今、決定的に気づいてしまった。
「ローさん?」
「・・・なんでもねェよ」
「そう、ですか・・・?」
訝しげにこちらを見た彼女の視線から、意識的に顔を逸らした。
本当は、気づきたくなかったんだろう。いや、気づかないようにしていたと言った方が正しいのか。
「・・・なにもあるはずが、ねェんだよ」
驚いた。おれは、彼女を悲しませるのが嫌だったのか。


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・・・この人たちちゃんとくっつくのかな・・・。
常々この人の「・・・・・・」って一種の返事だよねと思います。なにを深読みさせる気なんだろうっていっつも深読みます。←
(まぁたぶんただ面倒だったりただ絶句だったりだとは思いますけどね!)