泥濘に足を取られまして
21

海から帰ってみれば、それからはやっぱりこれと言って特筆することがない日々が続いた。ローさんは相変わらずで、本を読みふけっては眉間にしわを寄せている。だけど、どこか思案顔になるのも増えてきた気がしていた。
・・・そろそろ手詰まり、なのかもしれない。薄々と感じていた、無意識の内に意識の外へとやっていたものを、認めるしかなかった。けれどだからって、自分には彼に差し出せるほどの手がない。差し出したところで彼には一蹴されるような気もしたし、仮に捕まれたとしても、私の力で彼を引き上げることはできない。むしろローさんは笑って私を引きずり込みそうだな、なんてことを戯れのように考えたのが、今の状況を打破する手段というものを、私は情けないくらい持ちえていなかった。
だからなのか、は分からないが、私はふと思い立って「海賊」という単語を、聞けば何でも教えてくれるという先生で有名なサイトで検索にかけた。ら、やっぱり大抵のことは教えてくれる頼れる百科事典がトップに躍り出ていた。まあやっぱりな、と思いながらそれをクリックすれば、ズラリと並ぶ文字列が目に入る。それを適当に流して読むが、あれ、と現代の海賊被害、という項目が目に付いた。読み進めれば、そういえば、現代にも海賊が居たんだよなぁと、ぼんやりとその存在を思い出させた。今まですっかりと失念していたが、思い返せば、ローさんと初めて会った時に反射的に否定してしまったものだから、つまりは、これでは故意ではなくとも嘘を吐いてしまったことになってしまった。しかし、これはどうあがいても自分には縁遠いことで、あながち間違えでもないし、悪気があったわけでもなかった、の、だけど・・・じわりと、罪悪感のようなものが胸の底から湧き上がる。
「・・・あーまいった、なぁ」
ぐしゃりと頭を掻き、印刷ボタンを押した。やがて吐き出された紙を束にしてホチキスで留める。しばらくの間それを見詰めて、私は意を決するように立ち上がり、自室からローさんがいるリビングへ向かう。すると彼はもう定位置になってしまったソファでやっぱり本を読んでいて、私はその目の前に立つ。それに気づいたローさんは徐に目線を上げ、その視線だけでなんだ、と問うてきて。私はすっと息を吸う。
「この世界にも、海賊はいます!」
ビシィッという効果音が聞こえそうな勢いで紙を突きつけた。彼は一瞬、呆気にとられたような顔をしたが、次には私が突き出した資料を受け取っていた。それをペラペラとめくりながら斜め読みすると、彼はまた視線を上げて、すこし怪訝そうであるともいえるような様子で言う。
「・・・んなことァもう知っているが」
「・・・デスヨネー・・・」
一気に、がくっときた。いやまぁ、あれだけ本を読み漁っている人間が知らないはずはないな、とは予想していたことだったのだ。ともすれば完全なる徒労に終わることを、私は理解していた。だとすれば、これは彼に知っているかどうかと確認を取ればそれで済むことであったというのに、それをわざわざ先回りして資料を印刷してしまった。それはなぜだろう・・・なんて、問わなくても分かっている。この行為は完全に、許しが欲しいがための罪滅ぼしだ。
私は彼の世界を、完全に他人事と考えていた。帰れますよ、という言葉は無責任だから言いたくない、と思っていたけれど、そうじゃない。私は彼が帰れないということに責任を負う気なんてさらさらなかったのだ。だってそうだろう、当たり前だ。彼が帰れないのは私の問題ではなく彼の問題であるのだから――そうやって完全に、私は彼の世界を切り離して生活していた。だからこんな今更になってから、現代にいる海賊という存在を思い出すことになったのだ。私は気遣う振りをして、その実全然彼のためとはどういうことであるかを考えてなかった。だから湧き上がった罪悪感は、嘘のためだけではなかった。
けれど彼は、少しおかしそうに口の端を上げた。こちらの意図を見透かしているのか、あるいは、まるで介していないように。
「お前に気遣われるとはな」
おかしさを抑えられないとでも言うように肩を震わせてククク、と笑う。しかしその笑いを収めると彼は真顔で――といっても紙で口元を覆ったために実際のところは分からなかったのだが――こちらに尋ねてきた。
「おれに、帰って欲しくなったか」
射抜くような目だった。冷たさも熱さも感じない、温度のない視線だった。言われて咄嗟に思ったのは、帰って欲しい、わけではない。だが、私はそう聞かれたことが、不思議でならなかった。だって、私の意見はともかく。
「・・・え、だって、ローさんは帰りたくないんですか?」
「・・・・・・」
ぽかーんと、間の抜けた音がしたような表情だった。しかしみるみるその表情を歪ませると、彼はまた笑い出し、今度は抑えがきかなくなったかのように目を手で押さえて震えていた。その珍しさにえ、と固まっているうちに彼は一通り笑い終わり、はぁーと深く息をつく。そして言葉を探すような、ぼんやりとした口調で言った。
「・・・そうだなァ。この世界も悪かねェが・・・おれは帰らなきゃならねェ」
「そうですよねぇ。・・・・・・・・・じゃぁ、どうして、」
私の意見を聞いたんですか、という疑問は、言葉にできなかった。だって、だってこれじゃあまるで。
「・・・・・・おかしなことを聞いた。忘れろ」
そういって薄く弧を描く笑みは見慣れているのに、そこに乗った感情を私はうまくつかめない。なんで、そんなこと言ったんですか。なんでそんな顔、するんですか。やめてくださいよ私は、自惚れたくないんですよ。もしかしたら、なんて、そんな期待のかけ方は、いやなんです。ねぇ、ローさん。
「はい・・・・・・」
こんなんじゃまるで貴方、私に引き止めてもらいたいみたいじゃあないですか。


×