泥濘に足を取られまして
22

「・・・え、だって、ローさんは帰りたくないんですか?」そういって、いささか戸惑いを含んだ表情で聞いてきたあの、声が、耳にこびりついて反響している。この切り返しには、心の隙間を突かれたような、指摘されて暴かれたと感じてしまうような、衝撃があったのだ。そしてそう感じてしまうということはつまり、自分では気づいていなくて、気づきたくなくて、しかし・・・・・・図星を指されたということだった。
おれは、おれの世界に帰りたい。そんなことは当たり前だった。そのことで、彼女の意見など聞く必要はなかった。なのに、わざわざお伺いを立てて、彼女に嫌と言わせたかったのか――そんな自分に瞬時に気づかされて、笑いが止まらなかった。ここも悪くないと言った、本心だった。ああけどそれは、ひどい世迷言だ。いや、そんなレベルじゃねェなァ、と失笑すらした。おれの在るべき場所は、昔も今も、未来永劫、変わらない、変わらないのに。それが一瞬でもブレたことは、決して笑えることではないのだと、理性でできた自分がひどく冷ややかにこちらを――感情でできた自分を、いっそ侮蔑するような瞳で見詰めている。
あぁ、はやく、早く戻らなければ。それはここへきて久しぶりに感じる焦りだった。このままでは、まずい。この世界は、おれの中にある必要不可欠な感覚を奪っていく。あの世界で生き抜くための意識を、奪っていく。だからもう、帰らなければ・・・・・・。
「ところでローさん、ひとつ思うんですけど」
思考を区切ったところで、彼女の声が脳に届いた。いや、その前にも彼女は何事かを言っていたはずだが、あいにくそれは意味のある言葉として届いてはいなく、ただの音でしかなかった。だからこの時点でおれはやっと現実に戻ってきたといえて、我ながら重症だな、とまた失笑した。けれどそれを覚られないよう、平静として言葉を返す。
「なんだ」
「どうしてローさん、この世界に来たんだと思います?」
「・・・いきなり、核心だな」
「えぇ、まぁ。ちょっと整理するのもいいかなと」
言われて、別に考えることが出来ていかにも幸いだと、直前の思考を片隅に追いやるように思い返し始めた自分に笑えたが、そこに言及するのはひとまず置いておき、彼女に会った日のことを思い出してみた。・・・のはいいのだが、しかし。
「・・・いつも通り、だ。朝起きだして食事をしたらずっと本を読んでいた。それから部屋と甲板を何度か行き来していたら、いつの間にかこっちの世界だ」
「・・・なにか変わったことはなさそう、ですかね?」
「あぁ・・・、・・・いや、そういえば、こちらに来る直前に雨が降り出したな。・・・その海域は穏やかだったから比較的珍しい現象で、船員も驚いていた。・・・が、まぁ、だからといって、特別変わった雨だったわけではなかったな」
「そうですか。雨、が・・・・・・・・・」
彼女はそう言ったきり、ぼうっとなにかに気をとられたように視線を逸らした。なので怪訝に思って眉を寄せ、どうしたのだと問おうとすれば、ちょうど彼女がこちらを向き、瞳が弧を描く。
「今日の献立決まってなくて、ローさん何か食べたいものあります?」
「・・・・・・は?」
こちらの返事に少し驚いたように目を瞬いて、彼女は少しだけ困惑した顔になる。しかしそんな顔をされても意味は分からなくて、むしろこちらが困惑しながら話をつなげた。
「いや・・・なんで今その話なんだ?」
彼女に言えば、今度は怪訝そうな顔をして答える。
「だって今、何を食べようって話したじゃないですか?」
「・・・、」
おかしい、それは直感だった。一瞬にして様々な論理が構成されて、確かめるようにひとつ、質問をする。
「・・・お前は、その日どうだったんだ」
聞けば彼女はやっぱり、何を言っているか分からないというような怪訝そうな顔をしたものだから、直感したおかしさは、どうも間違えがなかったらしい、と証明されてしまったのだった。


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