泥濘に足を取られまして
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ついさっき話していた"来た日"になにかある、という当ては外れたか、と思って話題を変えた、はずだった。けれど、ローさんは思案げな顔でふと「・・・お前は、その日どうだったんだ」と言葉を漏らす。何が、と思って怪訝な顔をすれば「俺が来た日だ」と静かな声が返ってくる。しかしなんだかそれは、やけに今更なタイミングで話題を切り出されたよう感じがして、少し違和感だった。
「え、と。私、ですか」
でもそういえば、ローさんには聞いた癖に自分のことは考えたこともなくて、言われて初めて見えた可能性だった。記憶を当時にまで溯って――そう、大雨の日だった。長期休暇を取ったばかりで、朝起きたら荒れていた天候にうんざりして。
「・・・そう、ですね。奇遇なことに、ローさんと同じでその日はあいにくの雨でしたね。でもちょっとコンビニに買い物に行って・・・」
行って――けれど、私は何を買うつもりだったんだろう。・・・思い出せなかった。でもなにかを買ったのは確かで。
「・・・で、ええっと、それでコンビニまで行って、帰りで・・・」
帰りで。
「そういえば、帰り道でこけそうになって・・・・・・・・・」
そうだ、あの時、なにか。
「間抜けだな」
「え、いや、はは・・・」
「・・・なんだ」
なにかが、引っかかっていた。それがなんなのか思い出そうとしていたら、相変わらずの罵倒にまともな反応を返せなくて、ローさんが訝しんだ。その様子に私は曖昧に笑い返して、言葉を続ける。
「いえ・・・なにか泥濘に滑ったと思って振り返ったんですけど、何もなくて。ただ・・・・・・」
「ただ?」
意識しないうちに、眉根はよっていた。私は、まるで立て付けの悪い戸棚を無理やり引っ張るように、そのときの記憶を一生懸命に引っ張り出そうとしていた。どうしてこんなにも、あの雨が降っていた日の出来事ばかりが不鮮明なのだろう。やけに映像が荒くて、あぁ、なんだかまるで思い出すことを拒んでるとでも言うような・・・。
「えぇと、そうだ。確か、地面が乾いて、い・・・て・・・・・・」
「地面?」
「・・・・・・っ」
ぞわりと一瞬で肌が粟立つ感覚に目を見開いた。つぅ、と嫌な汗が冷やりと背を伝って、なにがなんだか分からないけれどぐらぐらして、足元が覚束なくて危ういような、こんな。
「おい」
声をかけられてゆるゆるとローさんに目を向けると訝しい、というよりもこちらを慮るような、いくらか気遣わしげな視線を寄越していた。それに珍しい表情だなとつい微笑したら、訝しげな目に戻ってしまったけれど。
「いえ・・・今思えば、おかしいことだらけだったんです、よ」
あぁどうして、今の今まで一片すら思い出せなかったのだろう。なぜ一番に怪しむべきところに思い至らなかったのだろう? たらたらと、内心汗を掻く。大体にして、あの時私はどんな目的でコンビニに行ったんだ? 目当てがちゃんとあったはずなのに、靄がかかったようにそのあたりの記憶がぼやける。なにより、指摘されるまでなんら意識していなかった・・・・・・いいや、"意識できなかった"ことが、なんだか、ひどく――。
「・・・・・・・・・えっと、」
・・・・・・あれ、私は今、何を考えていた?
フラッシュをたかれたように、思考が一瞬真っ白になった気がして。まるで今やっと時間の感覚を取り戻して、景色が動き始めたかのような意識に戸惑う。いや確か、今日の夕飯についてだったはずだ。そして彼は"いつも通り"なんでもいいと答えた。だから、なんだか今日は疲れている気がしたし、あまりやる気も起きないから、お言葉に甘えてしまおう、とまでは"思ったはず"で。
「じゃぁローさん、今日は手軽なものでもいいですか?」
気楽に聞いたはずのそれに、彼はひどく顔をしかめていた。


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自分で書いててアレなんですけど、主人公の状態を思い浮かべていたら怖い話になるわけでもないのに、SAN値的なものが若干削られたような気がしました。