泥濘に足を取られまして
24

「えっ・・・や、やっぱだめですか? ならちゃんとリクエストしてください!」
「・・・そうじゃない」
さっきから、彼女の言動がおかしい。おれの世界で雨が降っていた、ということは認識していた。なのに、前後の言葉を忘れ去ったように話が逸れた。さっきも、今も。雨が降ったと、おれが言ったら。おかしいことだらけだったと、彼女が、言ったら。
「・・・おれが来たときの話しだが」
「え、そこに戻るんですか」
・・・話は"戻る"のか。一瞬そんな考えがよぎるが、表情はピクリともさせずに質問を投げる。
「なにが、おかしかったんだ?」
聞くと、彼女は戸惑うような表情をした。
「・・・えっ・・・と、あれ、そういえば、ずいぶん中途半端なとこで切っちゃいましたね・・・。なんで、でしょう、すいません。うーんと・・・・・・円が、あったんです。それで・・・」
そこで、言葉が途切れた。考え込むように視線が落ち、フリーズして、そしてまたゆっくりと視線が上がり焦点が合う。
「あ〜・・・と、冷蔵庫の中が残念なことにほぼ空なんで、買い物に行ってきますね?」
そしてなんだか歯切れ悪く言い出したと思えば、これだ。まるで会話がちぐはぐだ。と、感じているのは自分だけなのだろう。しかしゆっくりと立ち上がる彼女の顔は冴えなく、それがどこか引っかかり「おい」と引き止めれば、彼女は動揺したように瞳を揺らしながら、小さく呟いた。
「私、なんで」
どこか呆然と意識を飛ばしているような彼女がますます気にかかり、なにか必死に言葉を形作ろうとしている口が、どうにか音を発するのを待つ。そして彼女は、本当におそるおそろると言ったように尋ねたのだった。
「・・・ローさん、私、夕飯何にしますかって、さっき、聞きました、よ・・・ね?」
それは、どこか懇願するような、そうであって欲しいと願うような口調だった。けれどその思いを酌んでやることが、今ばかりは出来ない。だってこれはきっと、この世界と自分の世界を繋ぐ謎の、核心なのだろうから。
「・・・いいや」
瞬間見開かれた瞳に、彼女の中でも確かに矛盾が起きていることを知る。それから彼女はまたゆっくりと、上げかけていた腰を下ろし、自身の肩あたりを手でさするようにしてから抱きこんた。それをなんとなしに静観していたが、肩を抱いていた手がそろりと胸の前に移動して、握った片手をもう一方の手で包むように固く握りこんで――それがわずかに震えているように見えた途端、意識が覚醒するような冷たさを覚えた。考えるよりも早く解かせるようにその両手を掴めば、隠し切れない振動が伝わって、歯噛みする。
「もういい」
「ロー、さ・・・」
「考えるな」
「だ・・・っだって、お、おかしいじゃないですか、こんな、」
「そうだな」
「だったら、」
言い募ろうとするくせに、今にも泣きそうな瞳に苛立って、力を込めてその手を握る。
「同じことを言わせるな」
強い口調になったそれに、今度こそ彼女は口をつぐんで、俯いた。
その様子を見ながら、ため息をついた。きっと、彼女の記憶の矛盾は手がかりのはずなのに、青褪めた顔を見ていられなかったから。だから、そのことに随分と甘くなったものだ、とせせら笑った冷静さを隅に追いやって。
しばらくして、ふと上がった顔と、焦点の合った視線に安堵の息を吐く。状況を把握していない顔で、その視線が握られた手と己の顔を行き来して。そして数瞬黙してから彼女は、ようやく言葉を発した。
「あ・・・・・・れ、なんでローさん、手・・・」
「・・・・・・」
「・・・あ、の? どうしたん・・・ですか?」
「・・・・・・・・・はぁ」
なんだか一気に脱力して、すべてが面倒になって出たため息だった。手がかりを逃したはずなのに、あまり惜しいと思っていない己に呆れていて、彼女の困惑顔に報われないような、しかし確かに安心する自分がいて。常の自分にしては珍しく、考えを放棄したい気分だった。彼女の腕を開放して、説明を待っているような怪訝そうな顔を、分かっているくせに無視して。
「・・・・・・・・・買い物に行ってくる」
もうとりあえず、何もかもを追いやってその場から離れてしまいたかった。


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