泥濘に足を取られまして
25

ぼうっとしていたらどうしてかローさんが手を握っていて、いつも真っ直ぐに射抜く瞳がそのときばかりは揺れていて。そのことにあれ、と思うものの、原因はいくら考えても分からなかった。そのまま疑問を投げかけ、彼の返事を待ったのだが、瞬間彼はひどく疲れたようなため息をついてここから脱出してしまった。・・・そう、脱出したように、見えた。
「・・・なんで?」
つまりそれは、彼はこの場から逃避したということになるのだけど、まさしく、そう見えてならなかった。見当のつく原因といえば手を握っていたことぐらいだが、それに至る記憶は抜けている。
「・・・・・・なんで?」
幾らか考えを巡らすが、突き詰める気にはならなかった。面倒だという思いが半分、どうしてだか"そこ"に思い至るのを回避したいというのが半分。そして次には思い出したように、そういえば買い物に行くといったローさんに必要なものを頼み損ねたなあ、という思考へ移り変わる。
しかし連絡手段は、ない。
これは仕方がないか、と腰を上げた。ローさんを追いかけよう。
彼が出て行ってからそんなに経っていないから、今ならまだ追いつくはずだと計算する。まったく、追いかけてくるのなら必要なものくらい自分で買えばいいのにと、いい加減彼に言われそうだが、出不精はちょっとやそっとでは直らないので考えないことにする。
適当に薄い上着を羽織り、玄関を出たところで、雨が降り出していたことに気づいた。空は薄い灰色で、それに心がざわりとする。けれど何に逆撫でされたのかまでは掴めなくて、それを振り切るように傘立てから傘を2本抜いた。まだ小雨だからと傘は差さなかったが、塗りつぶされた空と、塗りつぶされていく地面に、眉をひそめて。それでもなにも感じぬふりをして、私はローさんを追いかけた。
「ローさーん!」
彼が動きを止めて振り返る。ゆっくりと歩いていたらしい彼に追いつくのに時間はかからなかった。そのまま早足でかけよって。
そこまでは、よかった。
「ぬおっ!?」
足を取られたと思って、慌しくたたらを踏んだ。その先には当然ローさんがいるわけで、私は思わず彼の腕に掴まってしまう。
「すいません! ローさ・・・」
当然、罵声が飛んでくるだろうと思ってローさんを咄嗟に伺えば、しかし彼は呆然としていた。心を捉えられたかのように何かを一心に見詰めていて。そしてそれを怪訝に思った私がその視線を辿るために振り返ったのと、彼の呟きが聞こえたのは、同時だった。
「円形・・・」
ざぁっと血の気が引いた。
嫌な汗がどっと出て、遅れてどくどくと心臓を打ち鳴らす音が体に響いて聞こえた。けれどそれすらもどこか遠くで鳴っていた。
中途半端にしがみつく格好になっていた体勢をのろい動きで立て直して、目を凝らしてそこだけを見詰める。そしてそうするうち、自分の頭の中を塗りつぶしていた違和感はなんだったのかに気づいてしまった。
「なるほど、こういうこと・・・」
引きつった口元は、笑おうとして失敗したものだった。ローさんの腕に捕まったままだった手は、力が入ってどうにも自分の意思ではずせない。しばらくの間をおいて、ぱし、と音がして、しがみついた自分の手に、ローさんがもう一方の手を重ねたのだと少し遅れて理解する。そんな、まるで感覚が鈍くなっているような状態に、もう言葉を取り繕うことも出来ない。
「雨の日、サークルの出現、その上での転倒」
恐る恐ると彼を伺えば、いつにも増して鋭い視線と、それでも失われない冷静が彼を制御していた。
「確認する手間が省けた・・・!」
彼のつり上げられた口の端と、まったく笑わない瞳が、ずいぶん対照的に見えて。
まるで現実から切り離されて、足を着くことができていないような感覚に、ひどく、くらくらとしていた。


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