泥濘に足を取られまして
26

気づいたときにはもう家に着いていた。本降りになったにもかかわらず、片手に抱えていた2本の傘に出番が来ることは終ぞなく――おかげでそこそこびしょ濡れだ――玄関先の傘立てに戻っている。それを横目で見ながら、家までの道中をぼんやりと思い返す。確か、声をかけても反応のない私を見て、ローさんは舌打ちを一回打った後、それでも、緩く手を引いてここまで連れて来てくれたのだ。そして、視線を前にやれば、その手はいまだに繋がっていた。
「なんで」
咄嗟に口を突いて出て、けれど、その先を聞くのを躊躇った。それでも聞けない言葉の変わりに、思考は止まらなかった。
なんで、あのとき私に腕をつかませてしまったんですか。
なんで、身を引かなかったんですか。貴方にならそのくらいのこと、咄嗟だろうが簡単にできたはずなのに。
「分かって、いたのなら・・・」
分かっていたのなら、なんで。
そう考えながら、繋がれていた手を解くため引こうとした。けれどまるでそれを許さないとでもいうように力が余計に込められて、繋がれた手は意識的なのだと分かってしまって。
あぁ、だから、なんで。
「・・・離して、くれませんか」
「どうして」
「期待、してしまうから」
言ってしまったな、と。口を滑らせたな、と思った。そして思った瞬間に自嘲的な笑みがゆるく浮かぶ。
「何を」
「貴方にとって、都合の悪いコトを」
けれど滑らせついでに、この際いい機会だとも思った。この人の行方など"この世界"では自分が一番よく知っていて。この感情はきっといつか傷になる。必ず来る"いつか"によって傷になる。けれど、もし傷になってしまったのなら、たぶんそれは痛すぎる。だからその前に片付けて"終う"んだ。
数瞬の沈黙が落ち、ローさんが言う。
「その、おれにとって、都合の悪いことってのは?」
「それを、・・・貴方が、聞いちゃうんですか」
苦笑を滲ませれば、数秒の後、ゆるりと繋がりは解かれた。それに心底安心した自分がいた。残念だ、なんて思う心はなかった。し、あっては、ならなかった。
「お前こそ」
そこで言葉を区切って首だけでこちらを向いたローさんの顎から、ぽたりと雫が落ちる。あァ。
「はは・・・水も滴るイイ男、ですね」
場違いにも思ってしまい、そう言って仄かに笑えば、きっとローさんは顔をしかめると予想していた。けれど、意外にも彼は口の端をゆるく上げ、笑んだ。その瞬間、先ほどの安心を自らの手で壊してしまったなと、直感した。
「なァ、いつも思う。お前のそういう所に他意はないかもしれないが。おれも男だ」
そうしてローさんが完全にこちらを向いた。細められた目が艶っぽくて、ついドキリとして。
「期待、するぞ」
意趣返しのように囁かれたその言葉に目を見開いて、耳を疑った。
――あぁまったくこの人は何てことを言い出すんだ!
「いつも・・・なんて、いう、ほど・・・ありました、・・・っけ?」
「お前が知らないだけでな」
私は、今にも動揺して様々ものが崩れ落ちそうなのを悟られないようように、眉根を寄せてはは、と困ったように笑い出す。というのに、その動揺を隠すために口元に宛がった手は震えていた。これは非常にまずい。
「あー・・・なんでしょう。私もバカですけど、ローさんも大概バカですね」
「うるせェよ」
お前の所為だろ、と可愛くない言葉へ小さく返された声に、私はまた笑ってしまった。人間、キャパの限度をオーバーすると笑いしか出なくなるもんなのだ。あぁでも、笑うことすら出来なくなる日も近いかもしれないなぁ、なんて。
想像したそれは、ちっとも笑えなくて困る。
「ねぇ、分かってますか」
ローさんが視線だけでこちらに応えたので、私は言葉を続ける。
なんて平静を装いながら、相変わらず手は震えていて、それが体にまで伝わらないようにするのに精一杯だった。
「これは傷になりますよ。それも必ず、です」
「・・・そうかもな」
「バカですね」
「知っている、だが」
それでもいいと、思ったんだよ。その言葉はいつもと変わらぬ声音のはずなのに、どうしてだかやけに甘さを含んでいるようで。
らしくないですね、とからかうにはあまりに、真実味を持っていて。耳をふさぎたいな、と思ってしまった。
「・・・そうだな、おれは。お前の中に一生涯残るのなら、ソレが傷でも悪くないな、と、考えもした」
「はは、なんですかそれ、救いがないですね」
「ハ、救い、か。そんなものは端から、海賊になんざ存在しねェよなァ」
「ああそりゃ、ごもっとも、だ。・・・でもねローさん」
私はもうどうしても、困ったように笑ってしまうしか、なかったのだ。
「笑えているうちが、花なんですよ」
誤魔化して、しまうしか。


×