泥濘に足を取られまして
27

あの雨の日から特に、変わったことはなかった。そう、驚くほどに今まで通りだ。けれど平穏か、と問われれば、そうでもない気がした。どちらかというと、事態が膠着している、といった方が合っているように思う。空は晴天続きで、いっそ"雨"でも降れば白黒つくんじゃないか、なんて考えるが、降られたらそれはそれで困るので、晴天続きには感謝している。
しかしそんなことを考えながらぼんやりとリビングの窓から空を眺めていると、充電につなぎっ放しの携帯が振動していた。コンセントは部屋の端にあるので、お尻を床につけ座り込んで携帯を手に取る。休みに入ってからの着信は珍しいことで、いそいそと携帯を開けばメールが届いていた。それをもう無意識になっている動作で開いて読み始めて。けれど、その、文面は。
「久しぶり!」から始まったそれは、「先輩」からだった。長期休暇を取ったことが伝わっていて、メールをくれたらしい。ちょっと長い休みだから心配したよ、でも体調が悪いわけじゃないならいい、旅行なら楽しんでおいでね、そんなことが書いてあった。特に何も知らせなかった――知らせる気になれなかった――薄情な私なのに、変わらず優しくてまめな人だな、と苦笑がこぼれる。けれど問題は、その終盤に書かれていた文である。
「ところで、そろそろ誕生日だよね?欲しいもの、リクエストとかあったら言ってね。何人か集めてパーティとかもしたいんだけど、その日はこっちに来れたり・・・というか居たり? できるのかな?」
その文を読んだ瞬間、私は固まっていた。先輩の優しさがにくい。でもそんなところが嫌いになれない。言ってしまえば好き。いやでも憎い。とぐるぐると思いが渦巻く。そして私がそんな思いで葛藤していると「お前、誕生日なのか」と背後から声がした。今は聞きたくなかった声だ、と咄嗟に思ってしまったことにまた固まりそうになった。
「え、えぇはいまあ」
動揺を隠すように言ったが、その意思を反映し切れなくてどもる。それに眉を寄せたローさんが見てもいないのに容易く想像できた。声をかけられるまで気づかなかった気配にちょっと舌打ちをしたい気分になりながらも、後ろで立っていた気配が腰を下ろしたようなので、私はそろりと覗う。けれど予想に反して、ローさんは眉を寄せているわけでもなく、真顔でこちらを見詰めていた。
「ロー・・・さん?」
「行くのか」
「え、っと」
「その、「先輩」とやらに、会いに行くのか」
「・・・なん、で」
「見りゃあ分かる」
「・・・そ、ですか・・・」
何を見たら、とは聞かなかった。私の様子とか、メールの文とか、そういうので分かってしまう人なのだと知っている。
「そりゃ・・・、行き、ますよ。先輩がどうっていうか、せっかく計画してくれるんです、から」
「・・・そうか」
と、納得したように頷いたくせに、ふ、と床につけていた手に重みがかかる。いつの間にかローさんは、私の手を取っていて。声も出ずに、私はぱちくりと目を見開いた。あぁ、ええと。
手を、握られている。
ただひとつ、そう把握した途端、びっくりして手を引っ込めそうになるが、そんな大げさな反応を取りたくないと言った理性が、衝動を押さえ込んでいた。
「ど、どうしたっていうんです」
けれど声はすっかり揺れていて、こっちは全然動揺を抑えようという意識が働いてくれなかった。そして私の問いかけに答えているのかいないのか、ローさんは言葉を発した。
「なァ、おれがそこには行くな、もしくは、一緒に行きたいといったらどうする?」
「は・・・い・・・?」
言われた意味が一回では理解できなくて、頭の中で何回か繰り返した。それでも、言っていることは理解できるが、結局意味が分からない。
「な、んでそんな話になったんですか・・・?」
「分からないか」
「・・・正直に言うと、・・・分かりたくない、というほうが正確です、かね」
いえばローさんは「素直じゃねェな」と微かに笑った。ああもう、そんなふうに笑うのは反則だ。
「私が言ったこと、忘れたんですか」
「いいや? 覚えている」
「・・・じゃあ私を、泣かせる気なんですね」
「そうかもな」
「ははは! ・・・ああもう! いっそ清々しいくらい最低じゃないですか!?」
嘆くような、もしくは叫ぶような声で言っても、彼は口の端を上げるだけだった。
あの雨の日、私は、これ以上は傷つくから止めましょう、ということを遠回しに言ったのだ。そしてローさんはその言葉の含みに気づけない人ではなくて、しっかりと理解しているはずなのに、それでもこうやって、距離を置くどころか詰めてくる。必ず終わりが来ることを――いいや、来なくても終わらせなければならないことを――知っていて、それでもローさんは躊躇いもなくそこへ歩んでいく。
あぁでもそれは、なんて、・・・・・・破滅的、なのだろう。
「・・・質問の答えですけど、ノーです。さすがに。私は行きますし、ローさんを連れて行くにはちょっと色々不都合です」 「なにがちょっと色々不都合なんだ?」
「そうですね。まずローさんの設定を考えるのが面倒です。そして仮に考えたとして、絶対ぼろが出ます。私の方で」
「お前な・・・」
呆れたような声でいいながらも、ローさんは握った手を放していた。そのことを切なく思ってしまった心をわらいながら無視して、私はごく表面上だけで「ごめんなさい」と謝った。けれど、そう言う私を見詰めたローさんはすっと無表情になって、ぽつりと「いっそ」と、呟いた。そしてこのとき、それに対して反射的に先を促す形で「はい?」と首を傾げてしまった自分の行動を、私はたまらなく、悔やんだ。
「いっそおれが、バラしてやろうか」


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